2011年1月15日土曜日

その美しい人は、Marantz 7 と言った

年末年始に実家へ帰省していた間に私は秋葉原へ足を運んだ。

目的はハイエンド機器を扱うオーディオショップ。普段はネットでしかその姿を見ることのできない機器をこの目でしっかり見てみたかったのだ。あわよくば試聴も…。

メイド姿をしたビラ配りの女性を避けながら、最新の高級機を扱う店舗から、往年の名機を扱う店舗まで、心行くまで巡回してきた(高級機を扱う店になればなるほど、私のような若い客に注がれる視線(奇異の目)を強く感じたのだが、少し自意識過剰であろうか?)。

秋葉原で忘れられない体験をした。

私はそのとき、とある中古オーディオ店で、マッキントッシュのC-20という管球式プリアンプをぼんやりと眺めていた。

突然、背後から、えも言われぬ美しい女性の声の歌が聞こえた。私はその女性の歌う曲を知らなかった。

ただひたすら美しく、瑞々しい声。

そして或る月のいい夜、友と歩いて、いろいろ未来のことを話している時、自分は美しい声の歌をきいた。その声はへんに自分の心に響いた。自分はその女を一目見たかった。(武者小路実篤「友情」)

美しい女性の声を聞けば、振り返らざるを得ないのが若い男のサガであって、当然のように私は後ろを振り返った。

メーカーすら判らないスピーカーと管球式パワーアンプの姿が目に入った(今思えば、そのスピーカーはタンノイであったかもしれない。パワーアンプはガレージメーカーのものでなかったろうか)。

そして次の瞬間、私の目に入ったのは、これまで何度も目に焼き付けるようにネットで見てきた、あのMarantz 7(マランツ セブン)であった。

えも言われぬ女性の声の正体は、Marantz 7(オリジナル)によって「お化粧されて」この世界に解放されたCDであったのだ。

私がセブンの音色を聴くのは、このときが人生初であった。

私はセブンを少しなめていた。いくら歴史に残る名機と言えども、現代の観点では、フォノイコライザー回路にしか価値がなく、ライン部は決して褒められたものではないだろうと考えていたからだ。1958年-ステレオレコードがようやく世に登場した年-の作品であるという事実がその推論の担保となっていた。

しかし、どうであろう。ソースはCDである。フォノイコライザー回路をパスして、ライン部のみを使用した音が、これほどまでに美しいのだ。実体験は推論に勝るとは、このことを言うのであろう。

他店で試聴した最新の高級プリアンプとは、美しさの種類が明らかに異なる。最新の高級プリアンプの奏でる音色を「最新の高級カメラで撮影した写真」と表現するならば、セブンの奏でる音色は「腕の良いカメラマンがバルナック・ライカで撮影した写真」と表現されようか。どちらが良いとか、悪いとか、そういう次元の話ではない。

考えてみれば不思議なものだ。「美しさ」というものに、唯一の絶対的な指標があるのならば、たとえそこへ到達しようとするアプローチが違えども、同一の「美しさ」にたどり着くはずではないか。それがそうならず、あちらの「美しさ」のほうが、こちらの「美しさ」よりも私の考える「美しさ」に近いという結果になるのだ。セブンがたどり着いた美しさは、私の考える「美しさ」に極めてよく一致したどころか、「私の考えていた美しさとはこういう美しさだったのか」と、無意識の層に眠る観念を意識の層に甦らせる類のものであった。

私はセブンを自分のものにしたかった。しかし、今後の生活を犠牲にしてまでセブンを購入する勇気は私にはなかった。

生活に犠牲を強いることなくセブンを購入できるようになる頃には、おそらく状態の良いセブンはこの世に存在しない。人生の哀しみは、そういうところにも1つあるのではなかろうか。

その美しい人は、何かの偶然で私の前に現れた。だが、-いつか見た美少女のように- 私のものになることは、決してない。

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